2009年12月15日火曜日

(6)ガルデル、ニュー・ヨークにデビュー:

ガルデル、ニューヨークへ向う:

1933年11月7日、ブエノス・アイレスを客船“コンテ・ビアンカマノ”にオラシオ・ペトロッシ、アルベルト・カスティージョ同行乗船、午後10時にスペイン、バルセローナへ出航。
1933年11月22日、バルセローナ到着後、鉄道でパリへ行く
1933年12月15日、マドリード:パノラマ映画館で映画”ラ・カサ・セリア”が上演される。
1933年12月19日、其の晩、カフェー・デ・パリへワキフールド(イギリス・タバコ財閥)夫妻の主事するお別れ晩餐会へ招待される。ガルデルはこの時に友人達に49歳誕生をする事を告白した。(とすると1884年生れになる、1980年生れではないと証明している)
1933年12月23日、パリから鉄道でル・アブールへ、そこから客船ヨーロッパでニュー・ヨークへ、オラシオ・ペトロッシ、アルベルト・カステジャーノらが同行する。

(*)ガルデル、ニュー・ヨークにデビュー:
1933年12月28日、ニュー・ヨーク着
1933年12月30日、ニュー・ヨーク:ナシオナル・ブロード・キャスティングの番組でウーゴ・マリアーニ指揮する18人編成楽団・で”エル・カルテーロ”、“ブエノス・アイレス”など他に数曲を歌う、この番組にはビング・クロスビイ、エディエー・キャンター、アルトゥーロ・トスカニー二らが出演した。
1934年1月までWALDORF ASTORIAホテルに落ち着く、オラシオ・ペトロッシ、アルベルト・カステジャーノらはANSONIAホテル(2109 Broodway-73~74 Street)に落ち着く
1934年1月~3月間、ガルデルはANSONIAホテルに移る
1934年3月5日、ニュー・ヨーク:ガルデルは(またはウーゴ・マリアーニ楽団の伴奏入り)ラヂオ・リバダビアからバルビエリ、リベロール、ビバスの奏でる伴奏(またはエドゥガルド・ドナートの楽団)を聴き合わせてタンゴを歌い、その声はNBC放送から送信され、ラヂオ・スプレンディーで受信された電波は聴取者にはガルデルの歌とギター伴奏(楽団伴奏)が合わされた電波が聞こえると、当時としては技術的に高度な可なり複雑な志向がこめられた同時放送が行われた。

(*)後で有名になる映画撮影に入る:
ガルデル、パリで待機のアルフレッド・レペラをニュー・ヨークに呼び寄せる
1934年3月~8月、ニュー・ヨーク:Boaux Arts Apartaments(310 East 46th Street)に引越す、アルフレッド・レペラとアルベルト・カステジャーノらと住み始める。そこは巨匠アストル・ピアソラが少年時代に父親の作った木彫りのガウチョ(この木彫りガウチョはメデジンの事故で黒こげになるが後年ニュー・ヨークの古董店に姿を表わすが、、、)をガルデルに贈るために尋ねた場所。
1934年3月8日、NBC KPO放送 5:15pm番組にウーゴ・マリアーニ劇団と出演、
1934年4月4日、NBC WJZ放送8:45pm番組に出演、ガルデルは、この番組出演で1週間us$315の報酬をうけた。この放送はフイラデルフィアのkyw放送のも伝送同時放送された。




1934年5月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“クエスタ・アバホ”の撮影に入る。 アルフレッド・レペラのシナリオでルイス・ガス二エール監督の元に、アルベルト・カステジャーノとテリグ・ツチーが音楽担当、俳優達はカルロス・ガルデル、女優モナ・モリス、ビセンテ・パデゥラ、アニタ・デル・カンピージャ、そして、アルベルト・カステジャーノの面々、ガルデルは“クエスタ・アバホ”、“クリオージャ・デシ・ケ・シ”、”ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”、“アモレース・デ・エスディアンテ”、その上“祝杯”の場面で“リンピア”を歌う。共演者のカルロス・スパベンタが牧場の場面でサンバ“エン・ロス・カンポス・エン・フロール(野原の花)”、エスティーロ“オリビード(忘却)”を歌う。女優のモナ・モリスはスペイン語がおぼつか無いにも拘らず、ラケル・トーレス、ロシータ・モレーノ(彼女ら三人は電話でガルデルのインタビューを受けて選考を受けた)らを退けてガルデルの共演女優に抜擢された経緯がある。
1934年7月27日、ニュー・ヨーク:ビクター・スタジオでアルベルト・カステジャーノ(ピアノ)、グレゴリオ・アジャラ、ミゲル・カセレス(ギター伴奏)らでVICTORレーベルのレコード吹き込み、“クリオジータ・デシ・ケ・シ”、18909Bと”カミニート・ソレアード“18913Bの二曲。
1934年7月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“タンゴ・エン・ブロードウエイ”撮影、アルフレッド・レペラのシナリオでルイス・ガス二エール監督、カステジャーノとテリグ・ツチーらの面々と“クエスタ・アバホ”と同じメンバー。俳優たちはガルデルを初め、トリニ・ラモース(スペイン人)、ブランカ・ビセル(中米人)、の女優達とベセンテ・パデゥラ、ハイメ・デベサ、ガルデルは“ゴロンドリーナ(ツバメ)”、“ソレダー(孤独)”、“ルビア・デ・ニューヨーク(ニューヨークの金髪嬢達)”と”カミニート・ソレアード(日差しの小道)”などを歌う。
1934年7月30日~1935年3月20日、ニュー・ヨーク:ビクター・スタジオ、Terig Tucci楽団とレコード吹き込み、“クエスタ・アバホ”18909Aから“チャーチング・ムチャチータ”まで。
1934年8月10日、ニュー・ヨーク、カンポアモール劇場(116TH STREET-FIFTH AV)に映画“クエスタ・アバホ”上演される



1934年8月、フランス、パリ:アンバサドール・ホテルに宿泊する
1934年10月~12月、フランス、ニース:HOTEL MIDDLETOWNEに宿泊している。
1934年12月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“カサドール・デ・エストレージャ(THE BIG BROADCAST OF 1935)”撮影、ガルデルは“アプーレ・デランテーロ・ブエイ(急げ先頭牛よ)”、タンゴ“アマルグーラ(苦しみ)”共演者はマヌエル・ペルーフォ、カルロス・スパベンタ、及び女優セリア・ビジャ,ビング・クロスビイ、ジャク・オアキー、ライ・ノブレー楽団たちと多彩なメンバー。
しかし、ガルデル亡き後、パラマゥントは彼の出演部分を消却してしまう)

1935年1月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)”撮影、アルフレッド・レペラのシナリオでジョン・レイナルドッ監督の元に、音楽監督はテリグ・ツチーによる。俳優連は、ガルデルを初めに女優ロシータ・モレーノ、ティト・ルシアルド、マヌエル・ペルフォ、ダニエル・デル・カンポ、そして、アストル・ピアソラ少年(新聞売り子役)、歌の部分はガルデルとロシータ・モレーノとの二重唱で“エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)”を歌う、他に”スス・オホス・セ・セラーロン(閉された瞳)”、“ギター・ラミーア(私のギター)”、“ソル・トロピカル(常熱の太陽)”、“ボルベール(回想)”、ガルデルとルシアルド、ペルフホの三重唱で“フロール エン・バーノ(空虚な誓い)”歌う。





1935年2月、ニュー・ヨーク:パラマウント・スタジオ、映画“タンゴ・バー”撮影、前作と同じスタッフでの作品、主演俳優は当然ガルデルで、共演女優はロシータ・モレーノ、他の俳優たちはエンリケ・デ・ロサス、ティト・ルシアルド、ホセ・ルイス・トルトサ、らの面々、”アラバル・アマルゴ(苦き下町)“、”レハーナ・ティエラ・ミーア(遥かな我が故郷)”、”ポル・ウナ・カベサ(頭の差で)“、ホタ“ロス・オホス・デ・ミ・モサ(愛しき乙女の眼差し)”等の曲を歌う。
1935年3月19~20日、ニュー・ヨーク:ビクター・スタジオ、ビクター・レーベルに“アラバル・アマルゴ”から14曲をテリグ・テゥクシー楽団とレコード吹き込み、
1935年3月20日、ニュー・ヨーク:ビクター・レーベル最後の一曲“ギターラ・ミア”をギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロール、ホセ・アギラール、ギター伴奏で吹き込み。
1935年3月20(25?)日、ガルデル、スペイン語團フアン向けにメセージを吹き込む。




ガルデル、南米巡業に旅立つへ:

1 件のコメント:

El Bohemio さんのコメント...

ニュー・ヨーク、アストル・ピアソラ少年がガルデルに遭遇する、アストル少年のお父さんはタンゴフアン(当たり前?)でガルデルが住んでいる所まで承知で、ガウチョがギターを抱えている木の彫刻を掘り、アストル少年に託し、彼はガルデルのアパートメントのエレベータでカスティジャーノに出会う、そして、彼曰く鍵忘れたから非常階段からガルデルに報せてくれる様頼む、非常階段でも40数階だってさ!この時からアストル少年はガルデルのお気に入り。南米巡業に同伴までさせようとしたらしい。アストルのお父さんが反対して行かせなかった。これも運命の仕業です。