1923年11月15日、スペインへ:ホセ・ラサーノ、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリとリベーラ‐デ・ロサ劇団と共に客船アントニオ・デルフィーノに乗船、ブエノス・アイレス出港。この興行は6月に予定されていたが、なかなか実現に扱ぎつけず、ようやくの末に契約を成立させた。
1923年12月10~19日、マドリード:アポロ劇場に前期のメンバー及びリベーラ・デ・ロサス劇団とでデビュー、劇の出し物は 『マラ・レプタシオン、悪相伴(Mala Reputacion)』12月19日マリードの新聞にこの劇とガルデルの公演予告記事が出ている。
当日この劇場には、特別観席には当時のビクトリア女王とイサベル皇女が臨席していた。 公演は大成功を得たが興行契約問題で、ガルデル・グループは劇団と離れ単独行動をとり、独立公演を続ける。 1924年1月7日、マドリード:アポロ劇場、
1924年、ガルデル一行はフランス、トールゥーズ、パリへ旅を続ける(?)。
1924年2月13日、ブエノス・アイレス:帰国後レコード録音開始、57テーマの内54曲がガルデルのソロ、二重唱は3曲のみになる。 ガルデル‐ラサーノ二重唱は殆んど終局を迎ええる。この間二重唱で74曲、ラサーノ・ソロで6曲、ガルデル・ソロで224(タンゴを165曲)曲を録音した。フランシスコ・カナロとのレコード吹き込み共演あり。
*ブエノス・アイレス首都圏外南部地方巡業へ:
1924年5月22~25日、①トレス・アロージョ:アメリカーノ・バー映画館、
1924年5月27~29日、③バイア・ブランカ:アストル映画館(Calle Brown 182)
当地でHotel Parisに宿泊する
1924年6月3,4日、③タンディル:セルバンテス劇場
1924年6月5日、コロネル・スアレス:エスパニョール劇場
1924年6月16日、③アスール:エスパニョール劇場、
1924年8月6日、ブエノス・アイレス:ウンベルト・デ・サボージャ皇太子が来訪する、国賓歓迎会理事は儀礼会合の席で興添えさせるために、ガルデル‐ラサーノらを招聘し、彼らのクリオージャ音楽を披露させる。
1924年9月16日、ブエノス・アイレス:スマーッ劇場でブランカ・ポデスタ劇団はコロンビアの小説家ホルへ・イサック氏の作品“ラ・マリア”を演出公演する舞台合間に、ガルデル‐ラサーノらは、昨年録音したばかりのコロンビア民謡を披露した。
1924年9月21日、医学部インターの11回目タンゴ・ダンス・パティー、オスバルド・フレセドが“エル・オンセ”を作曲参加、無残な事故によりこのパティーは終局を迎える。1924年9月30日、ブエノス・アイレス:アルゼンチンでラヂオ放送開局にあたりグラン・ スプレンディー放送局は、ガルデル‐ラサーノの二重唱とホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらのギター伴奏で彼らのレパートリーを番組に取り入れる。
(*)1925年に入り、ラサーノとの距離は益々あき離れる傾向になり、ガルデル単独でギター奏者と公演する機会が増す。ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリのギター伴奏で年内は74曲録音、オスバルド・フレセド楽団と二曲録音
1925年1月18日、⑤ラ・プラタ:コリセオ・ポデスター劇場でブランカ・ポデスター劇団と共演し、また、スプレンディー映画館にも映画の合間に出演
1925年3月21,22日、カルメン・デ・ラス・フローレス:エスパニョル劇場、
1925年8月17日、ブエノス・アイレス:エドァルド・デ・ウインドソル英国皇太子が観光旅行で亜国を訪問した際、国賓歓迎理事は再びガルデル‐ラサーノらを招聘することにし、8月24日にブエノス・アイレス郊外のウエテルの牧場で英国皇太子の歓迎パーテイーを開催した。
1925年9月24~27日、④コルドバ:パレセ・シアター劇場
1925年9月28日、サン・フランシスコ:モデルノ劇場
1925年9月、ガルデル‐ラサーノ二重唱はラサーノ本人の決断により終局を迎える。
(*)三回目のスペイン行き:益々人気高まる。
1925年10月17日、汽船プリンセサ・マハルダでスペインへ向う、前回と同じエンリケデ ロサ劇団とギター伴奏者はホセ・リカルドだけで、理由不明だがバルビエリは同行せず、興行は10日間の予定が一ヵ月間近くに及ぶ長期興行となる。
1925年11月5日~12月23日、バルセローナ:ゴヤ劇場(Calle Joaquin Costa 68)、
1925年12月19日、バルセローナ:バングアルディア紙にガルデル公演予告記事が載る。
1925年12月20日、バルセローナ:午後にチボリ劇場、夜にゴーヤ劇場出演、
1925年12月~1926年1月、バルセローナ:スペイン・オデオン・レーベルに最初のエレクトロ吹き込みにて22曲のレコード録音をする。
1926年1月1日、バルセローナ:プリンシパル・デ・テラーサ劇場、
1926年1月18日~2月7日、マドリード:ロメア劇場、
1926年2月3~17日、バルセローナ:プリンシパル・ビクトリア劇場、
1926年2月6日、マドリード:インペリアル映画館、
1926年3月23日、客船ビクトリア エウへニア女王でブエノス・アイレスにもどる。
1926年8月5日~19日、ブエノス・アイレス:グラン・スプレンディー、次にエンピレーらの劇場に出演。
1926年9月17~26日、ブエノス・アイレス:フロリダ劇場でロドルフォ・カラベリー楽団と共演
1926年11月5~7日、⑥ラ・プラタ:プリンシペ・ビクトリア劇場、セレクト映画館、
1926年11月8日、ブエノス・アイレス:アルゼンチン・オデオンは革新システムのエレクトロ・レコード録音を始めるに当たって、その役目をガルデルに指名する。まず最初にパソドブレ“プニャディート・デ・サル”を始めに8曲を録音するが、装置の不調で録音は満足な音質(特に高音トーン)を得られず、録音した原盤は放棄された。
1926年11月12~14日、ブエノス・アイレス:ヘネラル・ベルグラーノ劇場、その後、慈善公演、
1926年11月17~22日、④ロサリオ:バリエテー映画館
1926年11月26日、ブエノス・アイレス:エレクトロの不調で決局、元のアコースティク録音を前回の同じ曲から録音開始する。録音された曲は“プニャリート・デ・サル”、タンゴ“ディチャ・パサーダ”など6曲からである。
1926年11月30日、ブエノス・アイレス:エレクトロ・システムの不調が改善され、再び録音開始され、またまた“プニャリート・デ・サル”からスタートしたが、 なんとこの曲を9回も繰り返して歌う事になる。12曲録音した。
1926年12月19日、ブエノス・アイレス:グルクッマンー社はグラン・スプレンディー劇場で第三回目タンゴ・コンクールを開催する、第一位入賞は“パヒナ・デ・アモール”が入選する。マエストロ・フレセド楽団と共に、ガルデルも参加し、コンクールの全ての出題テーマを歌うが、観衆の絶大な声援と要求により、これらのテーマを数回繰り返し歌う。
1927年の活動:レコード録音に専念する、
1927年1月末まで、モンテビデオ:ソリス劇場、
1927年2月3日、オデオン・スタジオ、昨年の11月から開始されたエレクトロ・システムの録音の続き、断続して10月22日までの間で107曲録音する
1927年内のガルデル、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらの活動は、益々と歌うタンゴのヒットの連続、オデオン・スタジオでのレコード録音継続の増大、彼らの仕事の日程が詰まり始め、また並行して劇場、映画館での公演が重なる多忙な日々が始まることになる。
1927年の巡業は常連ギター奏者の二人と、まず初めのマール・デル・プラタから、、、
1927年3月17日、④マール・デル・プラタ:パレセ・シャアター劇場
1927年4月、モンテビデオ:ソリス劇場、
1927年5月5日、ブエノス・アイレス:ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリのギター伴奏でレコード録音、“ノチェ・フリア”から。(レコード・リスト編参照)
1927年5月6日、③サンタ・フエ:ベルグラーノ劇場
1927年6月中、ブエノス・アイレス:コミコ劇場、共演のイグナシオ・コルシーニは“ファチャトスタ”を披露する。
1927年6月22日、ブエノス・アイレス:オデオン・スタジオ、“イスラ・デ・フローレス(花々島)”18221B番を吹き込み(アルトゥーロ・セサール・セネス作曲、ラモン・マチャード作詞、マチャードはタクアレンボー生まれだがガルデルとは認識がなかつた、作曲者セネスはピアニストでバルビエリの友人、ソリス劇場でガルデルの前でこの曲を披露したとか?)。初めこの曲はコルシーニがオデオンで吹き込みする予定だったのを、このニュースをラサーノが知り、この曲はガルデルに歌わせるべきとオデオンに交渉して、決局、ガルデルが吹き込むことになる。ラサーノが拘った理由は、この曲のテーマはガルデルが幼年期に過ごしたモンテビデオ旧市街の状況をずばり表現したテーマだからだ。
1927年8月、ブエノス・アイレス:アストラル劇場、
1927年9月2~11日、⑤ロサリオ:バリエティー映画館
1927年9月14~18日、⑤コルドバ:パレセ・テアトレー劇場
1927年9月27日~10月2日、⑦ラ・プラタ:セレクト映画館
1927年10月13~23日、ブエノス・アイレス:アストラル劇場
(*)スペイン興行とスペイン・オデオンでレコード録音:
1927年10月26日、スペインへギター奏者ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらの二人のギター奏者だけで客船コンテ・ベルデで巡業へ出発
1927年11月23~27日、バルセローナ:プリンシパル・パレセー劇場(現在の名はプリンシパル劇場 (Las Ramblas de Cataluna 27)、ホセ・リカルドとギジェルモ・バルビエリのギター二重奏でデビュー、
1927年12月16日、バルセローナ:オデオン・スペインで20曲のレコード録音、”クアンド・ボルベラス(君、何時帰る?)“18232Bから“パト(アヒル)”200065番まで、
1927年12月5~29日、マドリード:ロメア劇場、
1927年12月27日、バルセローナ:オデオン・スタジオで“ラ・クンパルシータ
Si Supiera(シ・スピエラ)”18231Aを吹き込む、
1927年12月31日~1928年新年にかけて、マドリード:フランシスコ・カナロとメゾン・セビジャーノに出演、その後一ヶ月間に亘りマドリーに滞在。その後、バルセローナに戻りラジオ放送出演、
1928年1月13日~2月1日(午後と夜の二回公演)、バルセローナ:バルセローナ劇場(この劇場は現存するが天井が降解する可能性ため建物は封鎖された)。
1928年1月15日4PM、バルセローナ:コミコ劇場
1928月2月8~13日、ビルバオ:シャン・ゼリーゼ劇場、
1928月2月15~19日、サン・セバスティアン:プリンシペ劇場、
1928年2月23~25日、サンタンデール:グラン・シネマ劇場、
1928年3月8日、バルセローナ:インパシアル紙の記事、『今夜9時、アルゼンチン・タンゴ歌手カルロス・ガルデルの送別晩餐会レストラン・ロイアル、入場券一人20ペセタ』とある。
1928年6月14日、ブエノス・アイレス:帰国
ガルデル、フランスにデビュー:
5 件のコメント:
El Bohemioさん
ガルデル年代記として立派な読み物ですね。参考にさせてもらいます。
タンゴカブキ
はじめまして。
私は、古いタンゴファンです。
ガルデルの記事興味深く拝見しております。
また、タンゴカブキさんのブログに掲載された記事も
拝見しました。
今日12月11日は、ガルデルの誕生日ですね。
また、タンゴの日でもありますね。
タンゴファンF
正人さん、当ブログ訪問ありがとう。古いタンゴフアンの方は貴重な存在ですから、うれしいですね。今後もご意見を下さい。期待します。まずはタンゴの日に乾杯です。フリオ・デカロの誕生日でもあるし、El Bohemioより、
タンゴカブキさん、ご誉めの言葉ありがとう。ガルデルの芸能活動はフランス、ニュー・ヨークへと行きます。アルゼンチン国内の地方公演も驚くほど多くの場所に出かけていますので、レコード吹き込み活動も有るし、スーパーマン的な活動です。
カルロス・ガルデルはスペインでまずはガウチョスタイルで登場です。
コメントを投稿