ビジャルビ、デナバ、ホセ・ベティノティー、ガビーノ・エセイサらのパジャドール時代から初期のタンゴ界にはアンヘル・ビジョルド、アフレッド・ゴビと其の夫人フローラ・ロドリゲス、ペポ・マジョーリ、等のタンゴを唄う面々が存在していたが、本格的にタンゴ歌唱のスタイルを確立するのはガルデルの登場を待たねばならいのである。
1917年のガルデルの活動はオデオン・レーベルのレコード吹き込み、モンテビデオでの劇場出演、初めて無声映画に出演、チリー行きなど、『この年にヘラルド・マトス・ロドリゲスが20歳の時に、ラ・クンパルシータの原型であるラ・コンパルサ”を発表する』。
1917年1月1~5日(3日)、ブエノス・アイレス:エスメラルダ劇場で歌唱タンゴ”ミ・ノーチェ・トリステ”がガルデルによって唄われる。
1917年1月8日、ブエノス・アイレス:オペラ劇場。
1917年1月11日~2月17日、モンテビデオ:ウルキサ劇場出演。
1917年2月7日、ガレリア・グメスに出演。
1917年3月1~7日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場。
1917年3月8日、ブエノス・アイレス:マジョ劇場出演。
1917年3月24日、モンテビデオ:エンピレー劇場。
1917年4月9日、ブエノス・アイレス:ガルデル‐ラサーノ二重唱はマクス・グルックマンー社より“ナシオナル‐オデオン”、“クリオージョ‐オデオン”、“ガルデル‐ラサーノ”レーベルらのレコード録音を開始する。最初のレコードは“Cantar Eterno(カンタール・エテルノ)”アンへル・ビジョルド作、レコード番号は18000Aである。そして、最初の歌唱タンゴとされる“Mi Noche Triste(ミ・ノチェ・トリテ)”18010Bの録音も含む。その上、“ナショナル”レーベル・レコード録音も開始する。
(注):後編で“ミ・ノーチェ・トリステ”を詳しく解説する。
1917年4月19日、モンテビデオ:“カフェ・ジラルダ”でロベルト・フィルポにより初めて“ラ・クンパルシータ”が演奏される。
1917年4月27日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場。
ガルデル、初めての映画撮影:1917年5~8月、ブエノス・アイレス:パトリア・フィルム社制作、グスタボ・マルティネス作、フランシスコ・デフリピス監督による無声映画“Flor de Durazuno(桃の花)”の撮影に入る。撮影地はコルドバ、ビジャ・ドロレースとブエノス・アイレスで行われた。ガルデルの役は伊達男、ところが彼は当時100kg近くの体重を持て余していて、この伊達男役が様にならなかったらしい。女優イルダ・ピロバーノ、シルビア・パロディー、アルへンチ-ノ・ゴメス、ぺピート・ぺトライ、と共演した。
1917年5月10日、ブエノス・アイレス:マルコーニ劇場出演。
1917年5月11~17日、ブエノス・アイレス:エンピレー劇場出演。
1917年7月30日、ブエノス・アイレス:アベニーダ劇場出演。
1917年7月31日~9月3日、ブエノス・アイレス:エンピレー劇場出演。
*初めての国外興行、チリー行き:
1917年9月25日~11月初め、ラサーノとギター奏者ホセ・リカルドと共にアンデス山脈を越えて隣国、チリーへ行く。地元の新聞記事には次のレパートリが紹介された、“カンタール・エテルノ”、“エントレ・コローレス”、“アマルグーラ”、“エル・ガト“、“ラ・パストーラ”など。
1917年9日25日、サンティアゴ:メディア劇場出演、
1917年9月26日、バルバライソ:コロン劇場、
1917年9月27日、バルパライソ:報道関係者への私的公演、
1917年9月29日~10月3日、バルバライソ:コロン劇場、民謡歌手ロクサーナとタンゴダンスを披露し、ホセ・ロサーノを交えて三人で民謡を歌う、1917年10月5~12日、ビニャ・デル・マール:オリンポ劇場、
1917年10月16日、サンティアゴ:ロイアル劇場(Huerfano 1044)、コメディア劇場、旧メンバーのサウル・サリーナのレパートリー(クエッカ、チリー民謡)がヒットする、
1917年11月7日~12日、サンティアゴ:ロイアル劇場、フェリクス・スコラティ・アルメイダ楽団、歌手パキータ・エスクリバーノ、民謡歌手ロクサーナらと共演、
1917年11月16日、ブエノス・アイレス:マクッス・グルックスマーン商会スタジオで歌唱タンゴ初めての“ミ・ノチェ・トリステ”を吹き込み録音をする。レコード番号18010B。
1917年11月21~23日、①メンドサ:センテナリオ映画館
1917年11月24~26日、②サン・フアン:ビオグラフホ・デ・サンフアン劇場、
1917年11月30日~12月2日、③ロサリオ:ホセ・ラサーノ、ギター伴奏ホセ・リカルドとオペラ劇場に出演、
1917年12月日付け不明、②サン・ニコラス:ホセ・ラサーノ、ギター伴奏ホセ・リカルド
1918年1月、ブエノス・アイレス:レコード“ミ・ノチェ・トリステ”18010Bが発売される。
1918年1月5~21日、モンテビデオ:各劇場、パルケ・プラジャ・ラミーレス・ホテル(Hotel Parque Playa Ramirez)に宿泊。
1918年1月末、ブエノス・アイレス:各劇場
*Spレコード:ガルデル作曲“エル・モーロ”
ガルデルの名前が書いてないが、フィルポの
オルケスタとガルデルの歌:
1918年4月、マクッス・グルックスマンー・レコード会社のガルデルの録音したレコード販売促進広報のため、地方巡業にホセ・ラサーノとの二重唱、ギター奏者ホセ・リカルドらとロベルト・フィルポ楽団(若きペドロ・マフィアが参加)ら共に出かける。
1918年4月2日、②コルドバ:、セレクト・ビオグラフホ劇場
1918年4月4~7日、②コルドバ:パレセ・シャアター劇場、
1918年4月10日~6月末、ブエノス・アイレス:エスメラルダ劇場、
1918年9月6~10日、②バイア・ブランカ:ムニシパル劇場、
1918年9月12日、①タンディル:アメリカーノ・バー
1918年9月18日、①プンタ・アルタ:パラシオ映画館
1918年9月21~27日、①トレス・アロージョス:アメリカーノ映画館、
パリス・ホテル(Nueve de Julio y Veintecinco de Mayo)に宿泊する。
1918年10月3~7日、ネコチア:パリス映画劇場
1918年10月21日、①オラバリア:ペローネ映画館
1918年10月24~27日、①アスール:エスパニョール劇場、
1918年11月6日、②ヘネラル・ピコ:
1919年2月初め、モンテビデオ:カタルニャー劇場出演、
1919年3月当初、ブエノス・アイレス:エスメラルダ劇場、その他、
1919年4月4~7日、パイサンデゥー(ウルグァイ):ディシオチョ・デ・フリオ劇場、
1919年4月11~14日、グアレグアィチュ(エントレ・リオ):同名の劇場
1919年4月15日、コンコルディア:オデオン劇場、
1919年5月9~12日、①ツクマン:サロン・エスメラルダ出演
1919年5月16~18日、②サンティアゴ・デ・エステーロ:ペティト・パライス劇場、
1919年5月19~25日、③コルドバ:パレセ・シャアター劇場、
1919年6月、②マール・デル・プラタ:オデオン劇場
1919年7月2日、②ツクマン:サロン・エスメラルダ
1919年7月~11月、ブエノス・アイレス:ホセ・ラサーノとホセ・リカルドのギター伴奏でエスメラルダ劇場を初め多数の映画館に当時の習慣で無声映画の合間に歌う。
1919年8月16~22日~9月3日、③ツクマン:サロン・エスメラルダ出演
(*)1919年10月~1921年5月末、ブエノス・アイレス:ホセ・ラサーノとの二重唱、ホセ・リカルドのギター伴奏とアルゼンチン・オデオン・スタジオでレコード録音開始、バンブーコ“ミス・ペロース”18012A番から45曲余り録音した
1919年11月3日、④ツクマン:ホセ・ラサーノと二重唱、ホセ・リカルドのギター伴奏でエスメラルダ劇場
1921年6月25,26日、②フニン:サロン・ビクトル・ウーゴに出演、
1921年、月日不明、②サンタ・フエ:当時、ガルデルの歌を目の当たりにしたという、バイオリン奏者のアルベルト・タオラジーの証言から、
1921年8月30日、①ヌエベ・デ・フリオ:ロシーニ劇場
1921年10月、ブエノス・アイレス:エンピレー、エスメラルダ劇場、
1921年11月26日、モンテビデオ:エスメラルダ劇場、
1921年12月6~18日、モンテビデオ:アルティガ劇場、
1922年~1924年、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらのギター伴奏で“ZORROGRIS”レコード番号18035Aから録音再開、100曲あまり録音した。
1922年4月4日、ベインテシンコ・デ・マジョ:エスパニュール劇場、
1922年4月、トレス・アロージョス:パリ・ホテルに宿泊、
1922年4月15,16日、②アスール:エスパニョール劇場
1922年6月30日~8月15日、ブエノス・アイレス:エンピレー劇場
1922年8月29日~9月13日、ブエノス・アイレス:マイプー劇場、
1922年9月16日、ブエノス・アイレス:サン・マルティン劇場にて初めてイグナシオ・コルシーニと共演、
1922年9月29日、③マール・デル・プラタ:オデオン劇場
1922年10月12~15日、⑤ラ・プラタ:イデアル劇場、
1922年11月19~22日、③ロサリオ:バリエテー映画館、
1922年12月1,2日、②タンディル:ウニオネ・イタリオーネ映画館
1922年終了にあたりホセ・ラサーノは喉の病でガルデルとの共演が少なくなる。
1923年、モンテビデオ:各劇場
1923年5月16日、ブエノス・アイレス:アベジャネーダのローカ劇場を始め、各映画館で映画と混同公演、マジェスティク、フロリダ、エンピエーリ劇場
1923年6月、③ヘネラル・ピコ:?
*ガルデル初めてスペインへに続く
よいよタンゴを唄う、タンゴ歌唱の夜明け:
5 件のコメント:
1917年は記念すべき年ですね。ガルデルが①初めてタンゴを唄った②初めて映画に出演した③初めて国外ツアーに出掛けた、と三つもの初めてが重なっているのですね。
タンゴカブキ
カブキさんしばらくです。1917年はガルデルにとっては初めてずくしで、特に初めての歌唱タンゴは歴史のページを記した記念するべき出来事ですね。
カルロス・ガルデルのデビューまじかの頃は失敗の連続でしたが、ホセ・ラサーノと組み始めた二重唱は徐々に成果を結ぶように成る訳です。“ミ・ノーチェ・トリステ”唄う頃から超人的活躍です。其の年ウルグアイ、モンテビデオでパスクアル・コントゥルシに知り会い、この詞を託されレコード録音するまでにまず、チリー行き、11月にブエノスに戻りこの有名な最初の本格的歌唱タンゴを録音、その後直ぐにメンドサ。サン・フアン、ツクマンへの地方巡業に出ているのですから。彼は生存この行動スタイルを崩さず超人的活動は事故死するまで続行でした。
1916~7年頃、ガルデルの芸能活動は可なり充実していたが、詳しい情報が無く不十分であった。多少遅れたが本文に情報追加した。
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