2009年12月15日火曜日

(7)ガルデル、プエルト・リコ、ベネゼーラを訪問:












ガルデル一行はボリケンの島、ルンバ、ボレロが響く土地、トリオ・ロス・
パンチョスの故郷にタンゴ持ち込んだのです:
ガルデル達が訪れる前に、彼の映画は、1931年10月からルセス・デ・
ブエノス・アイレス(Luces de Buenos aires)、エスペラメ(Esperame)、ラ・
カサ・デ・エス・セリア(La casa de es seria)、メロディア・デ・アラバル(
Melodia de arrabal)、エル・タンゴ・デ・ブロードウエイ(El tango de Bro
adway)などの映画は既に上映されていた。
特にトモ・イ・オブリゴ(Tomo y Obligo)の場面になると満場拍手渇采に
なり、その場面のフイルムを戻して4~5回も繰返しをしなければ成らず
と大変な騒ぎと化すのは当たり前だったらしい。ですから、本人が来た
からには騒動が大きくなるのも至極当たり前なわけです。
‘35年3月28日、ガルデル一行は豪華汽船“コアモ”に乗船してニュー
ヨーク出港。
4月1日午前5時30分、プエルト・リコのサンフアン港第一岸壁に到着。
サンフアン港での向えは早朝にも関わらず、興行主催社ユナイテッド
・シャアター社主フリオ・ブルーノ氏、ラファエル・ラモス・コビアン氏を
初めとした芸能関係者やエル・ムンド紙の記者達、その他各関連関
係者や多数の貴婦人達が客船の上甲板まで押し寄せて、大変な騒
ぎと化したのです。港湾近辺にはガルデルたちを出迎える4万人群集
が溢れた。こうして、この島は一ヶ月近くに渡り、ガルデルブームに沸
き返るのです。一行はその日から数日間にわたりコンダード・バンデル
ビルッ・ホテルに宿泊している。
ガルデルは公演興行が始まる前に入場料を安くして多くのフアンが
入場できる様に配慮を興行主催者コビアン氏に交渉して、もし、損益
の差額はガルデル自身が支払うとの約束をした。まず初めの公演は、
3~5日(夜の公演のみ)サンフアン、サンツルセ街:パラマンゥト劇場
でデビュー。
6、7日(午後と夜の2回公演)、サンツルセ街:パラマンゥト劇場
8日(夜の公演のみ)、ウマカオ:ビクトリア劇場、
11日(夜のみ公演)、ポンセ:ブロードウエイ劇場、エル・カレテーロ(El carretero)、クエスタ・アバホ(Cuesta abajo)、トモ・イ・オブリゴ(Tomo y obligo)らを初めに数曲のレパートリーを披露する。
この日はメリア・ホテルに宿泊
11日(夜のみ公演)、ジャウコー:イデアル劇場、
12日(午後のみ)、サンフアン、リオ・ピエドラ街:ビクトリア劇場、
12日(夜のみ公演)、リオ・ピエドラ街:トレス・バンデーラ劇場、
13日(午後のみ公演)、リオ・ピエドラ街:インペリアル劇場、
13日(夜のみ公演)、サンツルセ街:リベルティー劇場、
15日(夜のみ公演)、サンツルセ街:プエルト・リコ劇場、
17日(午後のみ公演)、サンツルセ街:サンフアン劇場、
17日(夜のみ公演)、サンツルセ街:プエルト・リコ劇場、
18日(午後のみ公演)、マナティー:アテナ劇場、
18日(夜のみ公演)、アレシーボ:オリベール劇場、
20日(午後のみ公演)、カジェイ:カジェイ劇場、
20日(夜のみ公演)、グアジョマ:カンポアモール劇場、
21日(夜のみ公演)、リオ・ピエドラ街:ビクトリア劇場、
22日(午後のみ公演)、プエルタ・デ・ティエーラ街:エウレカ劇場、
22日(夜のみ公演)、カタニョ(サン・フアンの郊外):レクッス劇場、
これらの各地に公演する。単純に計算しても全部で26回も公演し、相当な強行日程をこなして、プエルト・リコには22日間にもなる滞在をした。ガルデル達はこうしたボリケン市民の信じがたい礼賛に感動しつつ、別れを告げて行く。プエルト・リコでのガルデルの公演は1週間の予定が22日間と長引く事になった。この現象は如何に絶大な人気があった証拠ですね。後年、ティト・
ギサールがルンバ調(ボレロ?)のアディオス・アル・アミーゴ・ケ・セ・フエ(Adios al amigo que se fue)の曲をガルデルに捧げています。
また、ガルデルとフリオ・ラミーレスがあたかも真の二重唱で歌っているような特殊録音された、バンブーコ、ミス・フローレス・ネグラス(Mis flores negras)の曲がレコード化されています。フリオ・ラミーレスはガルデルとは遭遇してない時代の歌手です。
ガルデルが訪れていない場所のイサベラに地元のガルデル同好フアンにより、彼の追悼銅像が立てられています。

1935年4月23日、サンフアンから汽船“ララ”でベネゼーラへ、4月25日、ベネゼーラ、グアリア港に到着、港には興行マネジャーのルイス・プラシド・ピサレジョ氏とカラカス放送局のディレクター・エドガル・アンソーラ氏らを始め、熱狂した多数の貴婦人達の出迎えに合う。一行は港の近くのマクートのミラマール・ホテルで昼食を取り、後に鉄道(熱狂した観衆群が沿線を埋めた、ガルデルは窓際で手を振りながら答える)で2時間かけてカラカスへ、カニョ・アマリージョ(カラカス)駅での群集の出迎えは凄まじく,一同迎えの車に乗るのに往生し、車内に乗り込んでからも狂った様な群衆に車の天井のキャンパスをナイフで切り裂かれたり、その上群衆に巻き込まれたアルフレッド・レペラは警官に群集の一人と間違われ殴られる始末の果てに、決局全員共駆け足で群集の中を近くのガラス工場に逃げ込む騒ぎになる。カラカスではマジェスティク・ホテル(ムニシパル劇場の前に存在した)に宿泊する。


4月26日~5月3日、カラカスでの最初の公演は、プリンシパル劇場でディズニー映画“エル・ペーロ・ロバード(盗まれた犬)”との混合公演になる。レパートリーは次の“コバルディア(臆病)”、“カルナバル(祭り)”、“エル・カレテーロ(御者)”、“インソミニオ(不眠)”、“トモ・イ・オブリゴ”、“ポル・ウナ・カベサ(頭の差)”、“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”などの曲を歌う。同月8日、バレンシア:ムニシパル劇場、10日、バレンシア:リアルト劇場でも出演、しかし、気候の変化の影響で体調を崩して仕舞い一部の公演をキャンセルした。12日、バレンシア:ムニシパル劇場、
15日、カラカス・ブロードキャステイングで放送番組に出演、
17日、ラ・グアイラ:ラマス劇場、19日、マラカイボ:バラルッ、メトロ劇場に出演した後、グラナダ・ホテルに宿泊、20日、カビーマス:インターナショナル・サーカス、ここはマラカイ湖のマラカイ市の対岸の人口一万五千余りの小都市で住民は石油関係の労働者達が大部分を占める、挙句の果てに教養の低い人民が多い土地柄で、サーカスのテント会場で声が枯れるまで歌うが観衆は満足せず、観衆は荒れてテントを焼き払う騒動始末になり、官警の出動を仰ぎガルデル一行は夜の闇を利用して姿を晦まし、マラカイボまで逃げ帰る様となる苦い経験をしている。(ガルデル大フアンであるクララ・コーセル女史は当時8歳、彼女の祖母とこのサーカス会場に行こうとしたが、危険だからと誰かの忠告に従い.生存隋一の貴重な機会を逃している)。ガルデル一行はカラカスに戻った後、そこから二時間ほどのマラカイにあるフアン・ビセンテ・ゴメス独裁大統領の別荘“ラス・デリシア”に招待される、ガルデルはその日の夜にプリンシパル劇場での公演予定があるにも拘らず、強制的な迎えで100人ほどの招待客の待つ大統領宅に着くと、ガルデルはゴメスの闘鶏に凝ることを承知で皮肉の心算で“ポブレ・ガジョ・バタラス(哀れな安闘鶏)”を歌うが、ゴメスはご機嫌よく、ガルデルへ賞揚として当時としては充分過ぎる高額金(1万ボリーバル)を与えたが、彼はそのお金をキュラソー島に着いた時に亡命ベネゼーラ人達に寄付してしまう。
22日、マラカイボ:バラレッ劇場で、午後と夜の二回も公演する。
プエルト・リコ、ベネゼーラの両国で一ヶ月余りによる興行を大成功のうちに終えて、キュラソー、アルーバ経由の末、プエルト・コロンビア港に着く。 

ガルデル、コロンビアへ:

2 件のコメント:

El Bohemio さんのコメント...

プエルト・リコでガルデルは一週間の公演予定を22日間も滞在、すごい人気だったわけです。

El Bohemio さんのコメント...

今は行くのが難しくなったコロンビアとベネゼーラ国境、ククタからサン・アントニオ市のレコード店を覗いたらば、有る有ること30枚ほどのLp,これが全部カルロス・ガルデルの物ばかり、今から30年ほど前の事で、ガルデルが当地にも来たとは夢にも知らず。